
キャリアインタビュー:川越満氏
キャリアインタビュー:川越満氏(1)
川越さんは、医薬業界の出版、調査、コンサルティング事業を展開するユート・ブレーン(株)の正社員として、同社出版物の編集関連業務に携わる一方、講師、ビジネス本の作家として活躍されています。
凄腕つとめにんの記事
講師のお仕事や、ベストセラーとなったビジネス本(「病院のしくみ」「よくわかる医療業界」)は、会社の宣伝にもなることから、会社公認の「二束のわらじ」を履いていらっしゃるといったところでしょうか。また、昨年掲載された朝日新聞の記事では、「凄腕つとめにん」として川越さんが紹介されています。
では、まず川越さんの学生時代からお聞きしたいと思います。大学では何を専攻されたんですか?
コンサナリスト(R) 川越満氏
ユート・ブレーン株式会社
「ジャーナリスト・マスコミ学科」です。実は、私は米国の大学を卒業しています。80年代後半のバブル真っ盛りの頃、米国の大学が相次いで日本校を設立しましたよね。当時、私の大学の日本校は大田区にありそこに4年間通ったのです。母校は他の大学と同様、今は日本から撤退してしまっていますが、私は日本校1期生として入学し、撤退前に無事卒業することができたのです。母校は、米国の学校ですから、当然ながら英語で授業が行われますし、出席率なども厳しく、卒業するのは大変でした。同期の学生は1400人いましたが、卒業式に出席できたのは、私を含めわずか24人だったんですよ。
なるほど・・・そうなんですか!それは厳しいですねぇ。ところで、なぜ「ジャーナリスト・マスコミ学科」を選ばれたのですか?
高校時代に、テレビドラマの「パパはニュースキャスター」を見て、ニュースキャスターに憧れたからです。とても単純な理由ですね。(笑)ただ、大学に入学してからは、自分はニュースキャスターにはあまり向いていないと思うようになりましたし、そもそもテレビ局に入るのは難しいですよね。それで、20歳の頃には、ミリオンセラーを出す「ジャーナリスト」になりたいと考えていました。
将来の夢を「ニュースキャスター」から「ジャーナリスト」へと方向転換するきっかけは、何かあったのでしょうか?
はい。大学の講義は半分は米国人、残りは日本人の先生が行っていたんですが、日本人の先生の中には、講義内容をひたすら板書するだけとか、本当につまらない授業をする人がいたんです。それで私は頭にきて、「XX先生の授業にはまったくやる気が感じられない・・・云々」といった抗議文を書き連ね、事務局に届けたのです。すると、事務局の人からは「こんな恐ろしい文章は今まで読んだことがない」と言われました。私の文章に迫力や説得力を感じたらしいのです。それで、「自分には文才があるのかもしれない」と思い込んでしまって、ジャーナリストを目指すことにしたというわけなんですよ。
現在は、ベストセラー作家になられたわけですから、それは決して根拠のない思い込みではなかったんですね。では、大学卒業後、ユート・ブレーン(株)に入社された理由を教えてください!
大学入学時はバブルの絶頂期です。ところが、卒業する頃にはバブルが崩壊し、就職は氷河期の時代に入っていました。私としては出版業界で編集の仕事をしたかったのですが、ほとんどの会社で「編集職」は募集しておらず、営業の仕事しかありません。そんな中で、医薬業界の出版、調査、コンサルティングなどを主要事業としているユートブレーンが、唯一「編集職」を募集していたので入社を決めました。
新卒社員時代はいかがでしたか?
私は初めての新卒男子社員だったんです。当時、一番近い年齢の人でも9歳年上という社員構成でした。ちなみに、私の後にも、しばらく若手が採用されなかったため、10年間にわたって私がずっと最年少社員でした。(笑)
以上の状況からおわかりになると思いますが、弊社は新卒を定期採用する会社ではないため、新人を教育するきちんとした仕組みはありませんでした。みな中途入社ですし、自分の担当業務に忙しく、新人の面倒をみる暇はないという感じです。そのため、入社早々からほとんど仕事が与えられず、出社しても毎日やることがない。悶々とした日々が続きました。おかげで、このままではまずいと、異業種交流会に盛んに参加するようになったんですけどね。
新人さんにはつらい状況でしたね・・・
ただ、半年後に最初のチャンスがやってきました。ちょうどその頃、医薬分業が注目され始めたことから、「調剤薬局」向けの新しい情報誌を創刊することになり、その創刊メンバーに私が選ばれたのです。医薬分業というのは、従来のように病院で診察してもらい、病院内の薬局で薬をもらうのではなく、病院では処方箋をもらうだけ、外部の調剤薬局でその処方箋を渡して自分の薬をもらうという仕組みです。
創刊メンバーは私を含めて3人。それまでやることがなく時間を持て余していたのに、突然、自分で文章を書き、また自ら編集も行う多忙な状況に投げ込まれてしまい、本当に苦しみました。でも、自分の文章が印刷物になるのはまだまだ先のことだと思っていたので、むしろ、こうしたチャンスを若いうちにもらえてラッキーだったと思います。
ほとんど準備運動なしに、いきなり実践で鍛えられたのですね・・・
そうです。それからしばらく、その情報誌制作に関わっていたのですが、25歳の時、次のチャンスが与えられました。弊社の基幹情報誌のひとつ、「アプローチ」の編集長に任命されたんですよ。今の編集長が新規媒体の立ち上げに注力することとなったから、川越くんが後釜としてやってくれというわけです。
「アプローチ」は20年以上の歴史を持つMR(製薬業界の営業担当者)向けの情報誌です。業界でもよく知られていたので、私は30歳くらいに同誌の仕事に関われたらいいなと思っていました。ところが、まだ経験の浅い25歳の私にいきなり編集長になれというのです。当初は、「私にはとてもムリじゃないか」と思いました。でもほかにやる人もいないということで、同誌編集長に就任しました。(聞き手:松尾順)


