
キャリアインタビュー:梅野勉氏
キャリアインタビュー:梅野勉氏(2)
大変ではありましたが、苦労したというよりも非常に充実した毎日でした。しかも、インドネシアは、特に地方の歴史や文化が非常に魅力的ですので、いつの間にかインドネシアが大好きになっていました。
なるほど。そして、今度は、米国市場を任されるわけですね。
たまたま私がインドネシアに出張していた際、やはり同じく出張で来ていた部長から、宿泊先のホテルで、突然「来月から転勤だ、4輪担当の駐在員として米国に行ってくれ」と言われました。当時のホンダの4輪事業と言えば、特に米国市場はこれからが本番という頃でした。役員クラスはすでに駐在していましたが、担当者レベルの社員が4輪担当の駐在員として行くのは私が初めてだったのです。
当時の米国市場はどのような環境だったんでしょうか?
私が米国に駐在していた80年代前半は、ちょうど「ジャパン バッシング」(日米自動車摩擦)が問題化し始めた頃で、日本の自動車メーカーは輸出の自主規制を余儀なくされていました。70年代は米国自動車メーカーの独壇場でしたが、オイルショックなどの影響もあって、高品質で低燃費な 日本車が、少しずつ米国人の間に浸透し、日本メーカーが得意とする小型車への注目が高まっていました。こうしたこともあって、米国駐在中には、足しげくワシントンDCまで出かけていき、米国議会の議員に対するロビイング活動などにも携わりましたね。
ロビイング活動以外に、米国駐在のメインのお仕事はどんなものですか?
インドネシア担当時代は、現地のディストリビューターが間に入り、ホンダが直接、販売店(ディーラー)と取引することが無かったのですが、米国市場では、ホンダ100%の出資会社 アメリカン ホンダが、全米の販売店と直接取引していましたので、輸入販売計画立案から、マーケティング、販売流通網のコントロールが主な仕事でした。
米国時代に手がけられた、思い出に残る大きな仕事はございますか?
やはり、ホンダの第2チャネル「アキュラ」の企画と、その準備に携わったということですね。
当時、販売店網の拡大に関しては、従来のやり方では限界がありました。そこで、現地生産の拡大を前提にした別のチャネルブランドによる新たな販売網の構築を狙ったのです。
実は、この第2ブランドというアイディアは、個人的には時計で有名な「セイコー」のブランド戦略に刺激をうけたといえます。 当時「セイコー」は、すでに時計ブランドとしてのポジションを確立していましたが、海外の高級時計ブランドに対抗するために「クレドール」という新ブランドを立ち上げ、一方では、さらなる裾野を広げるために「アルバ」ブランドを立ち上げていました。つまり、こうしたターゲット毎に複数のブランドを展開する方法がヒントになったわけです。
但し「アキュラ」の場合は、「ヤング&スポーティ」という日本でのホンダのブランドイメージですとか、単なる「高級ブランド」として立ち上げるというよりも、米国市場で「ファミリー&エココンシャス」という絶大な強さをもったホンダブランドとの差別化をはかれるような、新たなイメージを打ち出すブランド作りに挑戦しました。
ただ正直なところ、当時はこうした「新ブランドの立ち上げは、リスクが高いので止めたほうがいい」という意見があったのも事実です。こうして「アキュラ」の企画は、私と現地のスタッフのわずか3人という極秘プロジェクトとしてスタートしたのですが、その後役員会を経て、いざ会社としてやると決まった途端、あっというまに数百人のチームが編成され、86年の立ち上げとなり、その後のレクサスなど日本車の第2チャネル設立へのパイオニア、そしてベンチマークとなりました。
もっとも、「アキュラ」の企画に深く携わった私自身は、残念ながら、この新ブランドの幕開けを見届けることなく帰国することとなりました。
新ブランドの立ち上げのようなビッグプロジェクトを企画されたというのは、本当にすばらしいキャリアだと思います。そのほか米国時代で印象に残っていることは何かありますか?
米国の自動車の歴史は日本より遥かに長いので、車の販売についても何十年とキャリアを積んできた筋金入りのプロが何人もいました。そうした販売店のオーナーを訪問しますと、「お前たちから教わることは何もないよ」なんて言われたこともあります。彼らは俗に言う「カーガイ」と呼ばれている熱血漢たちでしたが、いま思い返せば、こうした自動車業界の第一線で活躍する一流プレーヤーから、私は本当に大きな刺激と薫陶を受けたと思います。
例えば、あるトップセールスマンは、ちゃんと家族も居るのに「3年間、土日も含めて一日も休んでいない」と得意げに言うのです。こうした想像を絶するハードワークの結果、彼は高い報酬を手にしているのですが、実際に派手な服を着て金ピカの腕時計や装飾品を身に着けていました。つまり彼らは、典型的な「アメリカンドリーム」を体現していたのですね。
また、ホンダ現地法人の営業部長は、私が販売店のことで相談に行くと、「わかった、俺に任せとけ」って感じで、どんな時でも電話で各店舗に連絡して話しをまとめてくれるのですが、彼は、600件もある販売店の電話番号をすべて暗記していると豪語するのです。実際に私の目の前で、いきなり鉛筆の後ろでプッシュボタンをパパッと押して電話してみせる。彼からしてみれば、「どうだ」って感じなんでしょうけど、いわゆる販売店統括のプロとしての誇りを持って仕事をしているというふうに理解しました。 彼も強烈に印象に残る「カーガイ」の一人と言えますよね。
古いというわけではないですが、「古き良きアメリカ」という言葉を連想させるようなエピソードですね。さて、日本に帰ってこられてから、30代後半は秘書の仕事をやられたんでしたね。
はい。主に社長、会長を補佐する仕事でしたが、社内だけではなく、社外のもっと大きな枠組み、すなわち、自動車業界や産業界全体というようなスケールでの仕事も経験しましたので、自然と多くの団体や組織とお付き合いする頻度が増えましたね。思えば30代前半までは、一流を目指す一人のプレーヤーとして、「自分が何をやるべきか」ということが重要だったと思うのですが、秘書という仕事では「如何にして関係者に上手く仕事をやっていただけるか」というようなことを考えるようになりました。つまり、外部とのネットワークづくりが非常に重要になってきたということです。(聞き手:松尾順)


