
キャリアインタビュー:吉野健一氏
キャリアインタビュー:吉野健一氏(2)
なるほど、30歳直前で、吉野先生の専門分野となる「オキュラーサーフェス」関連の研究に出会ったわけですね。当時の日本では、「ドライアイ」はほとんど知られていなかったと思いますが・・・
そうです。米国ではそこそこ研究が進んでいましたが、日本でのドライアイ研究は私たちのグループが先鞭をつけました。今でこそ日本はドライアイ研究のトップクラスを走っていますが、当時は、「ドライアイ」という概念も、説明のための用語もなかったので、まずドライアイの定義から入り、基礎的な研究を積み上げていきました。
ただ、しばらくして留学の話が出たので、32歳で米国マイアミ大学の「Bascom PalmerEye Institute」に留学し、そこでは、主に涙の大元、「涙腺」の研究を行いました。
マイアミ大学のその研究所は、どんなところなのですか?
マイアミ大学に付属した「Bascom Palmer Eye Institute」は、眼科医療では全米でも1、2位を争うトップレベルの眼科病院研究所です。ここでは、フルグフェルダー(Stephan C. Pflugfelder)教授の指導を受けつつ、研究室に寝袋を持ち込み、時に泊り込んで研究に没頭しましたね。マイアミは、気候的にはとにかく暑いところで、ビーチに行くと下手すればやけどしてしまうほどです。クーラーの効いた研究室で研究していた方がよっぽど楽でした。(笑)
フルグフェルダー教授が、当時の恩師と呼べる方でしょうか?
そうですね。まあ、非常にドライな面もある方でしたが、とてもお世話になりました。その他にも,生活一般や生き方に影響を与えていただいたアンドリュー・ホォアン(Andrew Huang)先生,研究の真髄をご教授いただいたシェッファー・ツェン(Sheffar Tseng)先生がいらっしゃいます.実は、留学してから最初の1ヶ月程は、フルグフェルダー先生は話すことといえば挨拶程度で、一言もといってよいほど口を利いてくれなかったのです。俺は挨拶の練習をしにマイアミにまで来たのではないと思いましたね。最初に、積み上げると50センチにもなる涙腺関係の文献を渡され、とにかく読めと言われました。ところが、読み終わっても何も指示してくれない。そのままほって置かれていたのです。
私は、これはきっと東洋人で英語が下手な私に対する差別意識があるからに違いないと、勝手に思い込んだのですね。そこで、「日本人をバカにするな!」とばかり、先生の研究室に殴りこみ、いや直訴に行きました。(笑)
でも、実際、直接話してみると先生にはそんな意識はなく、私が不満を募らせていたことに驚いていました。先生は、クリニカルリサーチ(臨床研究)、つまり患者の治療を兼ねて行う研究が主体で、ベーシックリサーチ(基礎研究)はサブでやられていたので、私のような留学生を指導する時間的余裕がたまたまなかっただけなのですね。
ともあれ、直訴したおかげで、フルグフェルダー先生からは、ようやく具体的な研究についての指針をもらえました。それは、試験管内で涙腺の培養を行い涙腺という臓器を再生させるというものでしたが、開始2ヶ月でpreliminaryな成果が得られました。すると、それを見た先生は大喜び。短期間でここまでやれたお前はグレイトだ!というわけで、以来、何かといえば「ケンイチ、ケンイチ」と頼りにされるようになりました。この時、「ああ、私は認めてもらえたんだ」と感じて、ますますやる気が出ましたね。今から思えば大げさですが、お国の威信と私の面子がかかっているとばかり,当時は本当にがむしゃらでした。
ところで、留学費用は自費だったのですよね。
ええ、留学前にアルバイトで稼ぎまくった貯金を全部つぎ込みました。もちろん奨学金などももらいましたけど、帰国する時にはスッカラカンでした。
留学前に結婚して妻と一緒に渡米し、留学中に子供も生まれたので、研究と私生活の両方面で大変でした。生活費の面でもかなり厳しかったです。それでも、あちこち旅行もしましたし、3年間にわたる留学生活を満喫できたと思います。何よりも外国人と英語で会話したり、英文の文献を読んだりすることが苦でなくなったことは、帰国後の事業や勉強にも大変役立っています。
留学を通じて何か気づきはありましたか?
日本人のことをよく「ワーカーホリック」だと言いますが、米国ではトップクラスの人たちほど働くんです。私のいた大学でも、教授たちがそれこそ日本人以上によく働いていました。日本人の比ではありません。もちろん、街中のお店などでは、だらだら仕事をしている人が目に付きましたが、米国では、上の数%の人たちが全体を引っ張っているんだなと実感しました。
帰国後は、すぐに吉野眼科クリニックを開設されたのですね。
帰国後、米国での研究をまとめて慶應義塾大学で博士号を取得し、さらに基礎研究を続けたいと思いました。しかし、病院に戻ってしまうと、現場の仕事が忙しくて研究ができない可能性が高かった。そこで、坪田先生にも相談したところ、自分のクリニックを開業した方が、自分の裁量で研究室に顔を出して基礎研究も続けられるんじゃないかということで、95年(平成7年)の5月に「吉野眼科クリニック」を開設したというわけです。
ただ、実際にやってみると、やはり患者さんの治療が最優先。基礎研究は後回しにせざるを得ない。そうすると、基礎研究をメインで行っている研究者に比べると、片手間でやる基礎研究は自己満足的だと感じるようになったのです。ですから、今は患者さんを診ながら行える臨床研究を主体に取り組んでいます。
話が戻るようですが、そもそもなぜ眼科医の道を選ばれたのですか?
私の父は外科医で、ベッド数5床ほどの小規模な診療所を開業していました。父は、開業前は武蔵野赤十字病院に勤務していて、大きな外科手術を手がけていました。しかし、開業してしまうと、赤十字病院にいたころのような高度な手術をする機会が減ってしまったのです。父は、そのことにちょっと物足りなさを感じていたようです。また、この程度の規模の診療所では経営的にも限界があるということで、後は継がなくていいといわれていました。 私は手先が器用な方でしたので、外科か内科のどちらかといえば、「外科」だなと思っていたのですが、せっかくの技術が活かせなくなった父の状況を見ていたので、たとえ開業しても、大学病院レベルの手術が続けられる科はないかということで「眼科」を選んだというわけです。



