
キャリアインタビュー:妹尾堅一郎氏
キャリアインタビュー:妹尾堅一郎氏(1)
現在、妹尾先生は、知財マネジメント等の先端領域における先端人財育成を進める一方で、秋葉原再開発のプロデューサーとして「先端技術テーマパーク構想」を推進されています。まずは、大学教員・研究者としてのキャリアや専門・実践領域を教えてください。
私は、大学卒業後入社した富士写真フィルム(株)を30代前半に退社して英国に留学、日本に戻ってきたのが38歳です。ありがたいことに、すぐに産能大学経営情報学部の助教授の職を得ました。
産能大では、「経営管理論」、「マーケティング論」、「システム論」などの科目を担当。その後に移った慶應義塾大学では「社会調査法」や「情報社会論」の科目や、ゼミでは「問題学・構想学」「プロデュース論」といったテーマを掲げて、様々なプロジェクトを学生とともに行いました。
昨年度までは、東京大学の先端科学技術研究センターで「知的財産マネジメントスクール」の校長役として人財育成の先端を担当していました。それと並行して秋葉原再開発のような産学連携プロジェクトを進めています。
妹尾先生は、30代で、会社勤めから研究者へと大きなキャリアチェンジをされたわけですね。そもそも富士写真フィルムに入社されたことには、どんな背景や理由があったのですか?
私は団塊の世代のすぐ下の世代です。大学1-2年生のころは、学園闘争のためキャンパスにはバリケードが並んでいました。そしてオイルショック(1973-74年)が勃発。私が卒業した76年度の新卒採用は75年夏だったので、状況はどん底でした。幸いにも私は入社試験を受けた3社すべての内定をもらうことができ、最終的に、富士写真フィルムに入社を決めました。
富士写真フィルムに決めたのは、まずメーカー、つまり「もの」という実態、特に消費財のような社会で身近に接するものをやりたかったからです。また、それが文化的に意味があると良いなと思っていました。というのも、私は、10代のころから映画や写真が大好きでした。高校生の頃には、運動部の傍ら、京橋にある東京国立近代美術館のフィルムセンターに学生服姿で足しげく通いました。当時、学割50円で古今東西の名作映画を見ることができたからです。実は、そこでお会いする機会のあった有名な映画評論家、佐藤忠夫氏に、若気至りですが、議論を挑んだこともありました。(笑)
ということは、映画少年だった妹尾先生にとって、文化に係わる消費財メーカーの富士写真フィルムは理想の会社だったわけですよね。
そうですね。ただ、私は営業企画を希望したにもかかわらず、新人研修後に配属されたのは小田原工場の人事部でしたけど・・・。
小田原工場では、人事・勤労・教育関連業務で経験を積み、例えば、社員証が磁気カードになっていて、食堂などでの支払いを給与天引きする仕組みを日本で初めて導入するプロジェクトにも関わりました。また、私自身、10代のころから続けてきたバスケットボール部を小田原工場でも立ち上げ、神奈川県の社会人の大会で優勝を争うまでになったりと充実した日々を送りました。
小田原工場の後はどんなお仕事をされたのですか?
小田原工場にいたのは約5年、その後は西麻布の本社でプロフェッショナル写真部に配属され、「プロ写真家」相手の営業・マーケティング・事業戦略を担当しました。一般消費者ではなく、プロを顧客とする部署です。当時は外資メーカーが優位でしたが、全社的なプロジェクトで完全なひっくり返しをやりました。その戦略づくりや営業展開企画の担当として、文字通り昼夜兼行、休日もなく没頭しました。
このプロジェクトは日常の営業管理業務をやりながらの兼務でしたから、それはもう大変。2年くらいは終電前に帰れることはないという日々が続きましたね。まあ、メンバーは皆同じ状況でしたから夜中の1時2時まで働いて、「さあ、これから焼肉食べに行くぞ!」というノリ。でも、おかげでプロ用フイルムなどで世界シェアを圧倒する基盤づくりに成功したました。先日、この頃の「タクシー券」が出てきて、本当に終電過ぎまで毎日やっていたことが確認されました(笑)。
そしてキャリアの転機がやってきた・・・
そう。とことんやり尽くした感があって。
私は富士写真フィルムを嫌でやめたわけじゃないのですよ。素晴らしい会社ですし、人間的にも魅力的な人が多い。ただ、そろそろ別の世界が見てみたくなったということですね。


